40代になり旧友と語るそれぞれの幸せ
先日、久しぶりに、旧友に会ってきました。
私以外は、ベテランお母さんとなった友人ふたり。
中学の頃に仲良しグループだった二人とは、連絡先も知らない時期を経て、10年前ほどにまたつながったのです。
一緒に楽しいことする間柄というより、しっとり人生観を話し合ったり、そういう方が合う関係。
「幸せってなんやろね」と今日も友人がつぶやく。
彼女もはたから見れば、一生懸命自分でつかみとった、成功と言える人生を送ってます。
でも本人的にはいろいろと我慢していて、’本当の自分ではない’と感じているみたいでした。
幸せとは、散々言われている通り、他人が決めることではない。
「これとこれがあるから幸せでしょ」と言われても、「私はこれとこれとこれもあるから、幸せなはず」と思っても、本人がそう感じていなければ、本当に幸せなのかどうかっておぼろげですよね。
頭で感じるものではなく、「安心感・つながってる・守られてる感覚」そういうのが幸せの感覚なのかなと私は思っています。
大きな心配がなく、一人じゃない、そんな感じ。
今一人だとしても、誰かや何か(家族、祖先、地球、神仏)とつながっていると感じれば、孤独が少し癒されたりします。
自分が生まれる前、父や母はどれだけ喜んだだろう、赤ちゃんの時に、どれだけの人が可愛がってくれたんだろう・・今はいないおじいちゃんおばあちゃんが、どれだけ愛してくれただろう・・と想像するだけでも、ふわっと包まれたような気持ちになりません?
精神科医が見つけた 3つの幸福(樺沢紫苑 (著))では、「幸福」とは、「脳内物質」だった、と言っています。
心身の健康(セロトニン的幸福)、つながり(オキシトシン的幸福)、成功(ドーパミン的幸福)、その3つが関わっていると。
科学的に見ても、健康やつながりを無視して、成功だけで幸せな状況になるのは容易ではないと証明しているのですね。
ざわざわと周りの動向が気になった20代、自分の生活に一杯だった30代、年齢による老化を感じ始める40代。
強さだけだった心身にも、かげりが見え、老後や(自分自身のではないとしても、親兄弟、親戚などの老後を目にするなど)死について考えたりし始める時期です。
周りの同年代は、仕事で実績を積んでいる人、子育てに一生懸命の人、その両方に注力してる人、子育てが一段階したから仕事復帰した人、趣味や生活にこだわりを持って楽しんでいる人、病気を経験してゆっくりと暮らしてる人、セミリタイアした人、さまざまです。
あるいは私のように、その場凌ぎで生きてきて、いまだに模索しながらあーでもないこーでもないともがいてる人、もいます。
それぞれの生き方をしてきた途中経過が見える頃なので、本当にさまざまで、比べることすらできないような状態です。
でも私はそれが逆に心地よい。と感じています。
みんな横一線に競争してた学生の頃と違って、比べようにも、環境が違いすぎて比べられないという状態。
悩みも目標も何もかも違っているので、話を聞いてもどこか未知の世界のように聞こえます。
子供の悩みや希望、そこはもう私には踏み込めない領域ですが、反対に、私が抱える悩みや目標というのも、みんなにとってはまったく別世界だと思います。
悠々自適、順風満帆な陽の人生に見えても、コンプレックスがあったりして。
で、そういうことを、「当然そういうものだろう」と、理解、想像できるようになるのも、年をとったからこそかもしれません。
決して人と比べない、比べる必要もない、ということ。
誰かが「これが幸せだよ」と言ってきたところで、それをそう感じるか感じないかは、自分次第なので。
普段じっくり考えることなんてないけど、布団に包まれる時、こたつの中で温まる時、お風呂に浸かる時、ふっくらご飯を食べる時・・小さな日々の心地よい安らぎに感謝することは忘れずにいたいですね。
結局、他の人に幸せにさせてもらっていることに気付かされます。
そんなことを考えた日でした。
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